トップコンビ制の確立♥オフでも男役を演じ始めた男役たち(1980s~Ⅰ)【オフにおける男役イメージの変遷⑨】
ご無沙汰しております💦
GW、皆さまいかがお過ごしでしょうか?
公演中止に胸が痛みますね…
前回の⑧では、男役の間でついにパンツスタイルが定着し、めでたしめでたし~👏👏👏👏👏
というところだったのですが、
実はオフにおいても男役イメージが「確立」したのは、1980年代に入ってからであると考えられます。
その経緯を、三つの観点から見ていきます~!
今回は、「男役がオフの姿でも男役を演じるポートレート」に注目します📚
そこには当時定められた、みんな大好きトップコンビ制が深く関わってきますよ~♥
パンツスタイルは定着したけれど…
80年代に入る前に、パンタロン流行後の男役ファッションについて確認します。
⑧で確認したように、70年代のパンタロン・ブームをきっかけに、男役においてもパンツスタイルが定着しました。
そして男役は確かに、オフにおいても男役イメージを作ることが可能になりました。
しかしパンタロン・ブームは、オフにおいて男役イメージが「確立」する契機とまでには行きませんでした。
実際のところ、男役たちのワードローヴからスカートが消え去ったわけではなかったのです😳
試しに、パンタロン流行後の1975年の『宝塚グラフ』を見てみると…
あら、安奈淳さんがミモレ丈の爽やかなスカートをお召しでしてよ?
さらに2年後、1977年のグラフ。
あらあら、鳳蘭さんもステキなロングのワンピース姿。
このように、一度は消え去ったかと思った、男役のスカート姿が復活してきてますよ…?
つまり1970年代前半において男役のパンツスタイルが定着するものの、男役はみなスカートを捨て去ったわけではないことが分かります。
パンツもスカートも両方楽しむという、男役ファッションの自由さが伺えますね👖👗
80年代:トップコンビ確立の時代♥
さて、時は1980年代に突入。
この時代になるとグラフには、「男役がオフの姿でも男役を演じる」というポートが登場してきます。
それに深く関わってくるのが、トップコンビ制度の確立です♥
今でこそ当たり前のように思われるトップコンビ制度ですが、各組にトップコンビが意図的に創出され常設化されるようになったのは、1980年代のことだそうです*1。
当時有名なトップコンビといえば、雪組の麻実れいさん・遥くららさんコンビや、月組の大地真央さん・黒木瞳さんコンビが挙げられますね💞
雑誌に登場するトップコンビ
そしてこのトップコンビが、雑誌のポートにも取り上げられます!
もちろん、舞台化粧をして衣装を着けたオンの姿のポートもあるのですが、注目したいのは素化粧でのオフのポート。
1982年のグラフ1月号には、当時の各組のトップコンビが登場した、そのようなポートが掲載されていました~!!
しかも皆さまのポーズはオンでの絡みと同じように、手を取り合ったり寄り添ったりしたものですよ😌💖
はぁ…ときめきが止まらん……
このようなポートレートは、舞台上で愛し合っているトップコンビのイメージを、オフにもそのまま投影しているものであると言えるでしょう。
よってファッションに関しても舞台上と同じく、男役:パンツ/娘役:スカートというコードに則ったファッションがなされていると考えられます。
実際にトップスターは皆さまパンツスタイルで、トップスもブラウスにベストであったり、シャツにネクタイであったりと、男役のイメージに沿ったものを概ね着用されていました。
また、もしこのようなポートで男役がスカートを着用していたら、舞台上のイメージや関係性を投影することは難しくなるでしょう。
(女の子同士?みたいになっちゃうもんね…)
トップコンビでなくとも…
また時代が進むにつれ、トップコンビという特定の間柄でなくとも、男役/娘役が舞台上の役割を果たすというポートも登場してきます。
その最たるものは、男役と娘役がデートをするという設定のものでしょう。
例えば『宝塚グラフ』1990年2月号~12月号には、各組の男役スターと娘役スターがデートをするというシチュエーションでのポートレート特集が掲載されていました💝
スターの組み合わせの一覧👇
その中から、11月号の「YAN♥SHIGI Dating in November」をチェックします🔍
この回は、花組の安寿ミラさん(愛称:ヤン)と、星組のトップ娘役・毬藻えりさん(愛称:シギ)というカップルでした。
4カットの写真の内容としては、
①二人の待ち合わせの様子。安寿さんは毬藻さんに花束を渡します💐
②ビリヤードに興じる安寿さんと、それを見守る毬藻さん。
③お酒の席で仲睦まじく語りあう二人。
④二人が恋人のように組んだポートレート
というものです。
このようなデートの一連というシチュエーションが成り立つのは、まさに男役がオフにおいても男役イメージを作り、男役を演じているからこそでしょう。
また、花束を渡すヤンさんがガチ恋レベルでかっこよくて「ひーーーー😇😇😇」ってなるのですが、こんな風に読者がときめけるという点で、男役が疑似恋人と化していることも注目できますね。
もはや「変態」ではない
以上のように1980年代以降はトップコンビ制の確立によって、舞台上と同じく男役/娘役の役割が果されることを狙った企画が紙面においても登場し、男役がオフの姿でもオンと同じく男役を演じるようになりました。
そしてこれにともない、男役イメージにおけるオンとオフの連続性が強くなっていったと考えられます。
また裏を返せばこれは、男役がオフでも男役を演じ、娘役との恋愛関係を表現していてもオッケーになったという可能性も読み取れます。
⑤で触れましたが、戦前の男役は「変態」とみなされないように、オフに男らしく振る舞うことを禁止されていました。
しかしこのようなポートは、そのようなことをしていても「変態」とはみなされなくなったことの現れであるとも言えるかもしれません。
※トップコンビ制度の移り変わりについてもっと詳しく知りたい!という方は、中本千晶さんの以下の二冊がおすすめです。
研究書ではなく一般書ですし、サクッと楽しく読めるかと思います💓
次回は第二の視点★
オフもストイックに男役芸を磨く男役たちの姿勢に迫ります~💎
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ついに定着!男役のパンツスタイル(1970s)【オフにおける男役イメージの変遷⑧】
こんばんは★
今回はついに男役の間でパンツスタイルが定着する、1970年代について書きますよ~👖👖👖👖👖
ここまでにシリーズ7回、劇団誕生からは60年ほどかかりましたね…
はぁはぁ、長かった……
「それまで男役はパンツ着用してなかったん?」っていう話は前回してます👇
パンタロンとイヴ・サンローラン
1970年代に男役の間でパンツが定着したのは、世間で「パンタロン」というアイテムが流行し定着したことの影響があると考えられます。
まずは女性服のおしゃれ着における、パンツの萌芽や流行について確認しましょう🤩
女性のパンツスタイル定着に重要な役割を果たすのが、フランス人デザイナーのイヴ・サンローランです👓
こちらの左は、彼が発表した《シティ・パンツ》という作品です。
この「シティ」という単語が示すように、彼はパンタロンを街着用にデザインして発表した*1そうです。
つまり彼がこの年に発表したパンツは、街の中でも着用可能な”日常的なおしゃれ着としてのパンツ”とも言えますね🌃
パンタロン@日本
実際に1968年頃からは、一部の女性に着用され始めたそう*2。
⑦でも確認したように、パンタロンの登場以前にも女性服の中にパンツはありました。しかしそれは実用着であり、おしゃれ着ではありませんでした🙅♀️
しかしこのパンタロンは、れっきとしたおしゃれ着です✨
このようなパンタロンというアイテムが登場し、日本の世間でも着用されるようになったことによって、オフのポートレートにおいても男役がパンツを着用できるようになったと考えられます。
ついに男役も堂々とオシャレしてパンツを履けますよ💞
やったー🙌🙌🙌🙌🙌
すぐに取り入れられなかったパンタロン
ですが、1968年の『宝塚グラフ』を開いてみると…
当時最新のアイテムだったパンタロン、見つかったのは数ページのみ😳
なんで~????🥺
その理由を明らかにすべく、数少ない男役のパンタロン・ポートをサーチしましょう🔍
例として挙げるのが、グラフ1968年9月号の、古城都さんのポートレート🍁
この写真に付けられたキャプションには、こう書いてありました📝
8月は『ウェストサイド物語』にすべてをかけたミヤコ(古城さんの愛称)が珍しくおめかしをしました*3。
このように、当時パンタロンは「おめかしをして」着用するようなおしゃれなアイテムであり、決して日常的に着用するような、定着したものではなかったことがうかがえます。
また1968年当時、男役の中心的なボトムスはミニスカートでした👗
⑦で見た通り、男役がやっとミニを取り入れ始めたのが1967年。
1968年というのはその翌年ですから、男役たちがすぐにパンタロンへ乗り換えるということも考えにくいですよね~😗
登場したばかりのパンタロンがミニの影に隠れてしまっているという状況は、世間でも同じだったみたいです。
ファッション革命としてミニスカートがひとたび流行し、普及してしまう1968年ごろになると、人々はボトムは永遠にミニスカートであると思い込むようになるなどしており、このような革命をパンタロンがくつがえせるはずがなかった*4そう。
ミニスカート、かなり強しですね🔥
男役の乙女ゴコロ?
加えて、「オンとオフで同じ格好をしたくない😫」という男役の乙女ゴゴロ?も確認できます。
そんな記事をグラフや歌劇で見つけましたよ~😳
1.「安奈淳とおしゃれ問答」(グラフ1969年8月号)
安奈淳さん×ファッションの記事🩳
「パンタロンスーツは好き?」という質問に対し、安奈さんはこう答えておられます。
またパンタロンからは少し逸れますが、ジーンズの着用に関して当時の「えと文」には、このようなエピソードが👖
(なんと、「えと文」は1960年代からあった!)
2.葵悠香さん「心の散歩」(歌劇1968年10月号)
月組の旅行で鳴門のうず潮見物に出かけました。皆思い思いの服装で。(中略)
その中で、可愛らしい(スイマセン)フリフリのワンピースのスピッツさん(八重(筆者注:八重はるみさん、スピッツは彼女の愛称))「ワァ、かわいらしい服ですね。」と云う私に、「そうやねン、今日よっぽどGパンはいてこよ思ったんだけど、昨日まで舞台ではいてて、又、今日はいて来たら、舞台の続きみたいだからやめてンよ」とか。その為かしら、ずーっと見渡しても、男役の人でGパンをはいている人は一人も居なかった*6。
以上より、「わざわざオフにまでオンと同じようにパンツを着用したり、男らしいファッションをしたりしたくない」という、男役の絶妙な乙女ゴコロ?が確認できますね~😌💝
パンタロン・ブームがやってきた!
1970年代に入ると日本でもパンタロン・ブームが起こり、女性のパンツスタイルが世間に定着します💥💥
1970年秋からマーケットサイズが大きくなりはじめ、(中略)71年の秋冬シーズンには、流行商品の花形としてクローズアップされてゆく。
1972年には夏にもパンタロンが受け入れられ、この年の秋冬から73年秋冬までに爆発的な大流行となり、ヤングからアダルトまで、およそすべての女性がパンタロンをファッションとして受容したのであった*7。
ここで、1970年~1973年のグラフにおいて男役がどのようなボトムスを着用しているか、実際に確認を行いました📚
ざ〜っと見てみたところ、1972年の上半期までは、パンタロンの他にミニスカートやロングスカートを履いている男役も多かったのですが、72年の下半期にはついに、パンタロンが男役の中心的なボトムスに躍り出ることとなります😆😆😆
このように男役がパンタロンを取り入れる流れは、世間の流れと大体重なります。
⑧のミニスカートで見たように、世間での定着がなされた頃合いに流行アイテムを取り入れるというのが、やはりタカラジェンヌの姿勢なのでしょうね。
(男役は、決して時代の最先端を行くような存在ではなかった!というのがミソです)
サンローランのデザイン理念と男役イメージ
以上のような流れでパンタロンを取り入れ、男役の間でパンツスタイルが定着しました。
よって、ここに来てやっと男役は、「オンとオフに連続性があるイメージ」を作ることができるようになりました~‼‼‼‼‼‼‼‼(ドンドンパフパフ)
ところで、このようなイメージ形成が成しえたのは、流行・定着したのがサンローランのパンタロンだったからこそであると考えられます。
以下、少し頭がウニウニになってしまうかもしれませんが、私の考察にお付き合いくださいませ~💦
まずサンローランは、男性ファッションをいかにして女性の服装に取り入れるかということを常に考え、模索していた*8そう。
つまり彼が発表したパンタロンは、「女性服+男性性」というアイテムであるとも言い換えられますが、あくまでもベースは女性服であるという点が重要です。
一方、オンにおける男役のジェンダー・パフォーマンスの方法は、元来の女性の身体に男性的特徴を身につけるものであるとされています*9。
これは言うなれば、「女性の身体+男性性」という方法であるとも表現できるでしょう。
よってパンタロンというアイテムが、オフにおいても男役イメージを形成できることに寄与したのは、以下の二点が理由であると考えられます。
一点目は、あくまでも女性服であって、女性の身体を否定せず着用できるという点。
二点目は、身に纏うことで女性の身体に男性性を付与できますが、この「女性の身体+男性性」という構図は、オンにおける男役のパフォーマンスを獲得する方法に通じるものであり、オンと重なる方法でオフでもイメージ形成を行うということが可能になったと考えられる点です。
もし仮に、男役たちが自らの持つ女性の身体を否定し、男性服を男性服のまま取り入れるという方法では、オンとオフに連続性を持つイメージ形成という転換は、このようには成しえなかったのではないでしょうか。
※イヴ・サンローランとパンタロンについてもっと詳しく知りたい方は、菊田琢也さんの論文
『【68年5月/ファッション】:女性にパンタロンを:イヴ・サンローランと1968年』
がおすすめです🌟
ネット上で全文読めます📖👇
男役の間でパンツスタイルが定着し、オフでもかっこいいという男役イメージの出来上がり!
これにて変遷をたどる旅は終了★
めでたしめでたし~😊😊😊
と・思・い・き・や!
パンツスタイルの定着という出来事は、オフにおける男役イメージが「確立」する契機とまでにはなりませんでした。
え、じゃあどんなことがきっかけで男役イメージが「確立」したの~😫???
というわけで、次回からは1980年代に突入。
男役イメージの「確立」を、3つの観点から見ていきます🤗
乞うご期待🌠
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*1:日置久子『女性の服飾文化史―新しい美と機能性を求めて』西村書店、2006年、p.336
*2:日置、前掲書、p.336
*3: 「おしゃれな妖精」『宝塚グラフ』1968年9月号、宝塚歌劇団出版部、p.5
*4:千村典生『増補 戦後ファッションストーリー 1945-2000』平凡社、2001年、pp.196-197
*5:「安奈淳とおしゃれ問答」『宝塚グラフ』1969年8月号、宝塚歌劇団出版部、p.52
*6:葵悠香「心の散歩」『歌劇』1968年10月号、宝塚歌劇団出版部、p.68
*7:千村典生『増補 戦後ファッションストーリー 1945-2000』平凡社、2001年、p.257
*8:キャリー・ブラックマン『ウィメンズウェア100年史』桜井真砂美訳、トゥーバージンズ、2020年、p.235
*9:ジェニファー・ロバートソン『踊る帝国主義―宝塚をめぐるセクシュアル・ポリティックスと大衆文化―』堀千恵子訳、現代書館、2000年、pp.127-128
男役も脚を出す★ミニスカートの流行(1960s)【オフにおける男役イメージの変遷⑦】
こんばんは👒
今回は戦後の男役ファッション、特に1960年代に流行したミニスカートについて書いていきます💕
男役さんも当時は、ミニをはいて脚を出していたんですよー!
日本においてミニスカートが発売されたのは、1965年のこと。
しかし男役たちは、その最新アイテムをすぐさま取り入れたわけではありませんでした。
お洒落に敏感なタカラジェンヌなら、流行をすぐに取り入れてもおかしくはないかも…
なぜでしょうね😮❓
ここには前回の⑥の内容も関わってくるので、繋げて考えてみて下さいね🌟
戦後の女性とパンツスタイル
ミニスカートの話題に入る前に、まずは戦後における女性のパンツスタイルについて確認しておきます。
これは①でも触れたことですが、
今でこそオフの男役はパンツスタイルが主であるものの、1960年代までほとんどの男役はスカートを履いていました。
では当時、女性のボトムスはスカートしかなかったのでしょうか?
実際のところは、そうではありません。
戦後の女性服におけるパンツに関しては、以下のように説明がなされます👖
戦時中におけるモンペズボン着用の経験が尾を引いて、戦後の婦人服には、ごく実用的な服種としてのストレートなシルエットのスラックスは完全に定着していた。しかしそれはあくまで実用着であり、ワークウエアであって、タウンウエアではなかった。したがって街中で目につくものではなく、流行とかお洒落の話題になるものではなかった*1。
つまり、当時の女性もパンツを履くことはありました。
しかしそれは実用着であって、決しておしゃれ着ではないという点が重要です。
この実用着/おしゃれ着という観点は、次回キーポイントになってきますよ~☝
男役とパンツスタイル
では、男役の場合はどうだったのでしょうか?
1960年代の『宝塚グラフ』をめくってみると、当時のポートレートにはパンツスタイルの男役は、ほとんど確認できません。
これは、パンツがおしゃれをして着用するようなアイテムではなかったからというのが、大きな理由でしょう。
また『宝塚グラフ』1960年7月号には、男役におけるパンツの認識がどのようなものであったかが伝わる記事が、二点掲載されています。
①「家に居る時は…」
タカラジェンヌが、お家での過ごし方を紹介するこのコーナー🏠
(もちろんお部屋のお写真付き😉)
今回のゲストは、男役の末広栄さん。
部屋でしっとりとポーズを取る彼女。おやおや、パンツを着用していますよ…⁉
ですが写真と共に掲載された文章には、
夜はラフなズボンスタイルにくつろぎ、専ら本を読んだりラジオを聞いたり……*2
とあります。
つまり彼女は、夜に家でくつろぐためにパンツを履いていたのでした!🏘
②「藤里美保に関する十二のメモ」
今でもよくあるような、幾つかのワードについてスターが語るコーナー。
今回取り上げられたのは、当時人気を博した「マル・サチ・オソノ*3」の、「オソノ」こと藤里美保さん✨
「服装」の項目の中で、パンツに関しては以下のような記述がありました📝
よく男役の人達はズボン姿で通っていますが、「私は神戸から通学してるでしょ、だから電車の中などズボン姿では何かテレ臭いような気がして、未だに一ペンもその姿で通ったことがないの、いつもお稽古場で着替えてる」という処など、オソノって案外お洒落な人なのかも知れません*4
以上より、稽古場において男役はパンツを着用していたことが分かります。
しかし「その姿を公の場で晒すのは抵抗がある😓」という、藤里さんのパンツに対する捉え方が読み取れますね。
以上の二点を踏まえると、当時は男役もパンツを着用することはありました。
ですが部屋着であったり稽古着であったりと、世間の女性と同じくやはりそれは実用的なものであったことが理解できます。
「良家の子女」はミニスカNG⁉
ここからは、今回の本題であるミニスカートの話へと入っていきます🌠
1960年代のモードといえば、ミニスカート♥
ミニスカートの実例:
*ミニスカートブームのきっかけになった、モデルのツィギー
「ヒザ小僧まる出しのかわいいモード」というキャッチフレーズで、「テイジン・エル」が膝上10センチのミニスカートを発売したのは、1965年8月のことでした*5✨
しかし同年10月号の『宝塚グラフ』を見てみると、男役のスカート丈は膝を隠すような長めのものばかりです。
よって、ミニスカートという発売されたばかりの最新アイテムを、男役たちがすぐ取り入れたというような形跡は見られません。
あれれ、すぐに流行の影響があったわけじゃないのか…🤔
この現象は発売当時、世間がミニスカートをどう捉えていたかが理由であると考えられます。
具体的には、大方の意見は反対論であり、その理由の一つは、膝頭を出すことはエロティックであり、羞恥心がそれを許さず、良家の子女の着用すべきものではないというものでした*6。
つまりミニスカートは発売当時、タカラジェンヌが目指す「良家の子女」イメージに反するファッション・アイテムであったと言えます。
ミニもオッケーに👌
しかし、2年後の1967年のグラフを開くと…
なんと、膝もあらわなミニスカートを着用したポートレートが登場しています〜😳
この転換には、世間のミニスカートに対する認識の変化が関わっていると考えられます。
実際のところ1967年には、夏に向かって若者の間ではファッションとしてかなりの流行となっており、識者たちも半ば容認という方向へ傾き出していた*7そうです!
ミニスカートに対する世間の意見が変わったからこそ、「良家の子女」であるタカラジェンヌもミニスカートを履くことができるようになったのですね⭐️
そしてこのように、タカラジェンヌのファッションには世間のあれこれが関わってきているということが、よく分かります。
次回は、1970年代へと時代が移ります🌟
ついに男役の間で、パンツスタイルが定着しますよ~👖👖👖
また女性のパンツスタイル定着に大きな役割を果たした、フランスのとある有名ファッション・デザイナーも登場します👓
スカート→パンツへの移行がなされる、このシリーズの大きな盛り上がりポイント‼
どうぞお楽しみに💖
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女学生からお嬢さんへ*戦後のイメージ転換【オフにおける男役イメージの変遷⑥】
おはようございます🌸
戦前の男役についての回が⑤で終わり、
今回からはファッションが目まぐるしく移り変わる、戦後の男役について書いていきますよ~👔
ファッションに関して、戦前と戦後で大きく変わった点といえば…?
そう、洋服です👗
戦後洋服が広まる中で、『宝塚グラフ』におけるオフのポートレートにおいても、袴でなく洋服を着た姿が中心となっていきます!
ところで、戦後においても劇団はタカラジェンヌに、③で確認したような「良家の子女」イメージをに持たせる方針を取ります。
しかし時代の変化から、袴姿でそのイメージを作ることは難しくなってしまいます😰
そこで、劇団が代わりに取った「良家の子女」アピールの方法とは…⁉
「良家の子女」の変化
まず注目したいのは、タカラジェンヌにおいて演出されていた「良家の子女」イメージの指す内容が、戦前と戦後で少し異なっているという点です。
③で確認した通り、袴を制服として定めたように、タカラジェンヌに与えられたイメージは女学生でした。
つまり戦前の「良家の子女」とは、「女学校に通うような良い家柄のお嬢さん」というものでしょう。
一方戦後における「良家の子女」は、「豊かな暮らしをしている裕福な家のお嬢さん」を指します。
この転換は、戦後洋服が広まる中で、袴というファッションを使って「生徒」イメージを作るのが難しくなってしまったのが理由だと考えられます。
(そもそも戦前のような女学生ブランドが薄まったとか、女学校の制服が袴ではなくなったという要素も考えられますが)
タカラジェンヌの家庭訪問
では、劇団は袴の代わりに、どのようなものを使って「良家の子女」アピールを行ったのでしょうか?
これを紐解くために、さっそく1960年の『宝塚グラフ』を開いてみましょう!
戦後の『宝塚グラフ』において頻繁に掲載がなされたコーナーの中に、タカラジェンヌの実家やお部屋を紹介するものがあります🏠
そこに掲載された写真からは、彼女たちの家庭の物質的な豊かさや、それらを揃えられるだけの裕福さが伝わってきます…✨
例えば1960年9月号の『宝塚グラフ』には、水原節子さんの実家を紹介した写真がされています。
そこには、当時流行であったこけしなどの人形がズラリ‼
その物量には圧倒されるばかりです😳
また実家だけでなく、タカラジェンヌが暮らすお部屋を紹介した写真も、多数掲載されています。
そこにはテレビやピアノといった家電や楽器が置かれたものも沢山あり、彼女たちの裕福さが伺えます📺🎹
このような写真は1970年代初めまで存在しており、それほど人気のコーナーだったのでしょうね…😌💓
暮らしが明らかになる写真の機能
このような実家や自室が丸ごと映された写真は、タカラジェンヌが生まれ育ち暮らしている裕福な家庭の存在をリアルに想起させるとともに、
彼女たちが文字通り「良家の子女」であることを読み手に植え付けます。
現代において、タカラジェンヌのお部屋の写真はすみれコードによって掲載されないので、こんなのをグラフに載せちゃっていいの⁈と驚きますよね😲
ですが当時は「良家の子女」イメージを形成するために、暮らしの様子が明らかな写真が必要だったのでしょう。
「良妻賢母」イメージ
タカラジェンヌに与えられたイメージとしてもう一つ、「良妻賢母」があります。
このイメージの演出も、実家での写真において確認できます。
例えば1960年7月号では、那智わたるさんが実家に帰省し、エプロンを着けて家事労働にいそしむポートレートが掲載されていました🍳
このような写真はタカラジェンヌに、結婚後は「良妻賢母」となるような女性であるというイメージを付与するでしょう。
(それにしても、今はこんな男役スターの姿見たくね~って感じじゃないですか😓)
次回からは、男役のファッションの移り変わりを詳しく見て行きますよ~🔍
⑦では1960年代に流行した、あのアイテムが登場します🎀
お楽しみに★
60年代のファッションを先取りしたい方はこちら⇩
⑦はこちら💁♀️
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戦前の男役は、オフに男らしく振る舞うことを禁じられていた⁉︎【オフにおける男役イメージの変遷⑤】
戦前の男役シリーズも今回がラスト!
今回は、
「戦前の男役は、オフに男らしく振る舞うことを禁じられていた⁉︎」
ということについて書いていきます🌠
現代の男役は、オフでもかっこいいポーズを取ったり、キザな仕草をしたりと、オフにおいても男らしく振る舞っていますよね。
しかし戦前の男役は、そのような振る舞いは禁じられていました😳
これは一体、どういうことなのでしょうか…⁉
前回確認した「変態」という概念も再び登場するので、思い出しておいて下さいね〜🙌
前回の④はこちらから👇
一三先生の憂鬱
時は1935年2月、レヴュー時代真っ盛りで男役人気が爆発していた頃。
「僕、兄貴、君」というような男性の言葉が生徒内ではやりつつあるという話を聞いて、一三先生は一寸憂鬱になります*1。
そこで、男役だからといってその平生の態度までが「僕」「兄貴」ではないようにとした上で、そのようなことを生徒内で話し合うよう、男役の葦原邦子さんに手紙で求めました*2。
オフにおける異性装と「変態」
このような指導がなされた理由として、オフまで男らしく振る舞うことは、前回確認した「変態」度を増すことに繋がってしまうからという点が考えられます。
例えば、同じ異性装の芸能である歌舞伎も、島村抱月により「日本の旧歌舞伎といふ如きは変態芸術」という批評がなされるなど、「変態」イメージが付いてしまったそうです。
そもそも、江戸時代の女形は初代芳澤あやめの教えにより、日常生活も女として暮らしていました*3。
しかし「変態芸術」の汚名を避けるため、歌舞伎界自身が、女形も舞台以外の日常を男性的に振る舞うよう強く求めるようになったそうです*4。
確かに今の女形さんは、オフでは女装してないですよね~!
(というわけで(?)女形の中で一番大好きな、中村七之助さんのオフのお写真記事を貼っておきます😌💕BIG LOVE…)
つまり異性装の舞台において変態のイメージを少しでも遠ざけるためには、舞台上のイメージをオフにまで引きずらないことが大切であったということでしょう。
葦原さんのご返答
上述の手紙に対し葦原さんは、以下のように返信しました。
生徒たる私達は絶対に、と云っても過言ではない位、家庭、或いは寄宿舎にあつては、何でもない普通の女の子と変りがないので御座います。それにどなたがお耳に入れたかは存じませんが、宝塚の学校の生徒同士の間で、君、兄貴、僕などといふ言葉を口にする者は一人もありません。それはどうか御安心下さいませ*5。
以上のように、生徒はみな舞台を降りたら普通の女性であると断言し、一三先生が懸念するような言葉を使う者も存在しないと答えておられます。
ファッションの面から見ても、「普通の女性である」という男役の意識は見えまして…
オンでは爆イケな男役だった葦原さんが、
(葦原さんでお薦めなのは『憂愁婦人』カール役の、前髪をハラリと垂らしたプロマイドです…
今でも誰かの人生を狂わせるレベルでかっこいいと思います💘)
1937年の『宝塚グラフ』におけるオフのポート(左ページ)では、袴を着てばっちり「女学生」アピールをしておられます♥
また右ページの小夜福子さんは、戦前においては少数派な洋服姿ですが、こちらもワンピースという、女性としての装いをしていらっしゃいますよね👗
ファンは男らしさを求めていた?
加えて葦原さんは、「男役に関し、舞台で男になるから普段までもそのつもりで考えているファンには弱っている*6」とも述べておられます。
つまりこの返信が書かれた1935年当時から、舞台上の男役イメージをオフにまで重ねて見るという、今と同じようなファンの受容の形があったということが確認できます。
今も昔も、ファン心理は同じということですかね~
いやはや面白い!!!!!
しかし「変態」というイメージを避けるためにも、そのようなファンの期待には答えず、舞台を降りたら男役は女性であることを求められていました。
そして男役自身もまた、それをしっかりと守っていたということが分かります。
もし一三先生が生きておられたら…?
このように一三先生は、
「男役がオフでも男らしく振る舞うことは断固反対!」という立場を取っておられました。
もし今も一三先生がご存命で、オフでも男役らしい服を着てかっこよく振る舞う男役の姿をご覧になったら、どう思われるでしょうか?
「けしからん!」と思われるのでしょうか…😅
ですが、そもそも一三先生がこのような立場を取ったのは、当時男装が「変態」とみなされていたのが理由でした。
なので、男装がもはや変態と思われなくなった今では、立場が全く変わっている可能性もありますよね❗
「男役 VS 変態イメージ」に興味を持たれた方は、
ジェニファー・ロバートソンさんの『踊る帝国主義―宝塚をめぐるセクシュアルポリティクスと大衆文化 』もご覧ください~!
今まであまり大っぴらに語られて来なかった宝塚の側面に興味のある方は、読んでいて絶対に楽しいと思われます😎
(「変態イメージ」とか、同性愛とか、ジェンダーとか、帝国主義とか、オリエンタリズムとか、軍のプロパガンダ・レヴューとか…
これらのキーワードにピンときた方は、是非にです!)
次回はいよいよ、ファッションに目まぐるしい変化が起こる戦後へと突入します👔
洋服が主流となる中で、男役はどのような服装をしていったのでしょうか…❓
⑥はこちらからどうぞ👇
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「男役」の確立と、髪を切った乙女たち【オフにおける男役イメージの変遷④】
こんばんは✨
最近、ブログを書きたい欲が爆発しているなつみちです🔥
「オフにおける男役イメージの変遷」シリーズ、今日もバリバリ書いていきますよ~💪
前回の③では、舞台に立つ女性のマイナスイメージを避けるため、劇団員を「生徒」と定義するという小林一三先生のイメージ戦略を確認しました。
「生徒」と呼ぶことでこの問題は一件落着…と思いきや、
宝塚はその後も、様々なマイナスイメージとの闘いを続けることとなります…⚡
レヴューの導入と、「男役」の確立
本シリーズで中心的に扱う、「男役」という存在🎩
宝塚の歴史において男役が登場し確立するのは、レヴューというジャンルを輸入し上演したことがきっかけであるとされています。
初の上演作品である『ドンブラコ』にも男性の桃太郎役が登場するなど、レヴュー導入以前も女性が男性役を演じてはいたのですが、それは今に連なる「男役」とはまた異なるものでした。
1927年に日本初のレヴュー『モン・パリ』が上演され、宝塚はレヴュー時代に突入。
『モン・パリ』では初めてスーツを着た紳士の役としての「男役」が初めて登場し、またレヴューの中に徐々にロマンスの要素が入り込むようになり、娘役との恋愛を演じる「男役」が確立されていったそうです*1😍
初期の男役の髪は長かった!
こうして誕生し確立した男役でしたが、当時における男役のヴィジュアルは、一体どのようなものであったのでしょうか?
そのトピックスとして一つ、男役の髪型が挙げられます。
現在の男役は、地毛もショートカットにするのが恒例ですよね。
しかし当時の男役は、髪が長いまま男役を演じていたそうです😳
では一体どのように男役を演じていたのかというと、髪を丸めてネットをかぶって、その上に帽子をかぶるというものであり、それはネットで頭がふくらんだ頭でっかちのイメージだったみたいです*2。
下記資料における右ページの写真は、1930年に上演されたレヴュー『パリゼット』の男役なのですが、
確かに長い髪を隠した帽子が大きくて、スタイリッシュとは言い難い感じですよね…🙄
良家の子女は断髪NG
見栄えが悪いにもかかわらず、なぜ男役たちはそのような方法を取ったのでしょうか?
理由としては、以下の二点が挙げられます。
一点目は、当時における髪を切ってしまうこと、つまり断髪に対するイメージが、宝塚が目指す「良家の子女」イメージと相容れなかったからです。
当時断髪をしているような女性は、世間から一種特別な眼で見られていたそう*3。
今でこそ女性のショートカットはごく一般的ですが、およそ90年前は女性が髪を切ることに対する風当たりが、まだまだ厳しかったんですね…
ましてや、タカラジェンヌは舞台人。
前回確認したように、せっかく「生徒」「良家の子女」イメージ作戦で頑張っていたのに、断髪してそのイメージが壊れてしまったら…というところですよね😨
男装=「変態」⁉
また二点目として、完全な男装による「変態」イメージを避けるためという点が考えられます。
演出家の高木史朗先生は、当時の男役の在り方に関して以下のように語っておられます。
男役という考え方も、無理に男らしく見せるとか、変態的な疑似男性的なあり方は否定された。あくまで少女が男の役をやっているということで許される範囲の自然さをとった*4。
つまり長い髪を切ってしまい、完全な男装により近づくというよりは、帽子の下には長い髪が隠されていることが明らかであり、「これはあくまでも少女が演じている男性ですよ☺」ということがヴィジュアル的に分かるという面を、敢えて残していたということでしょう。
ところで、高木先生のお話に登場した「変態」という言葉は、当時異性装がどのように受け止められていたかを示しています。
明治末~大正期には、異性装を禁忌とする西欧の精神医学が導入され、異性装者が「変態性慾」の持ち主と見られるようになります*5。
つまり、異なる性を装う男装や女装といった異性装は、「変態」としてみなされていたのです😲
そう、男装にもまたマイナスイメージが存在していました💦
長い髪のまま男役を演じるというのは、この「変態」イメージを少しでも緩和する策でもあったということでしょう。
髪を切った乙女たち
しかし舞台上での見栄えを向上させるために、男役たちは断髪を行います…✂
男役として初めて断髪したのはタカラジェンヌではなく、松竹歌劇団の水の江瀧子さんで、それは1931年のことでした。
(先日OGの凰稀かなめさんが、彼女を演じておられましたね~❣)
続く1932年、『ブーケ・ダムール』を上演する際、門田芦子さんがついに断髪を敢行‼
(下記資料左ページに、断髪した門田さんのお写真が載っています)
門田さんは、劇団の理事長にひどく叱られたそうです…*6🥲
断髪しちゃったけど…
そして、断髪の波は男役の間で更に広まって行きます。
と言っても、断髪へのハードルは依然高かったようで、切るときに家族会議をした上で切ったなどという状態であったそうです*7。
また、自身の判断で断髪を行ってからも男役たちは、家族など周囲の人々にどう思われるのか、叱られはしないかと心配をしていたみたいです😟
例えば、『歌劇』1933年9月号には「断髪漫談」という記事が掲載されましたが、そこではそのような男役のエピソードが確認できます。
およそ90年前の『歌劇』をめくってみると…📖
・お母さんが大阪駅で会つた瞬間の大喝一声にとてもなやんでゐました。(中略)よしどんな事が有つても帽子は取つてやらないぞと悲壮な決心をしました。(大路多雅子)
・お家からは家内中そろってお父様のお墓参りをしなければならないので一度帰つて来る様にと何度も/\手紙を寄こすのですが頭が気になつてどうしても帰る気になれませんでした。(秋風多江子)
以上のように、
「短い髪を見られて、母親に叱られるのではないか…😰」
「断髪しちゃったから帰省しづらい…😫」
といった、男役の心の内が明らかとなっていますね。
一三先生のご意見は?
一方、自身が掲げる「良家の子女」イメージに反する断髪が男役の間で広まったことに関して、一三先生はどのように考えておられたのでしょうか?
もしや、大変にお怒りだったとか…?🥺
1934年の『歌劇』10月号にはズバリ、「「生活の質素」と「断髪」の話」と題された先生による記事が掲載されており、以下はその中で断髪に関する箇所を抜粋したものです。
レヴユウの盛大となると同一歩調に、断髪礼讃の声が学校中を風靡して、どうすることも出来ないようになつて仕舞った。舞台上の必要上から、スマートの男役や、ダンス専科の役どころから見て断髪は勿論必要である。然し、一面日本人としてほこるべき黒髪を持つ女として考えると、猫も杓子も断髪するのはどうかと思ふ*9
このように、舞台上での必要性から断髪を半ば容認する姿勢ではあるものの、やはり日本女性として誇るべき黒髪を切ってしまうという点に関しては、断髪に反対しているということが確認できますね。
(めちゃくちゃお怒りとかではなくてよかった…(´▽`) ホッ)
ファンの反応は?
最後に、ファンは男役の断髪をどのように捉えていたかについて見てみましょう。
当時の「高声低声」にはちょっと長いですが、以下のような投書が寄せられていました🌼
(なんと、「高声低声」コーナーはこんなにも昔から存在していたのです…!)
小夜、葦原さんが断髪された二人とも今宝塚の男役を背負って立つ人だけに双手を上げて賛成したい。之れでどれ程舞台の上の男役によりスマートさが見られるかと思ふと楽しみです。断髪しても生徒さん自身が日常宝塚の生徒としての誇りと品位さへ持つならば舞台の上に清さと溌剌さを加へる丈でも嬉れしい事ではありませんか。(澁谷美登里)*10
以上より、舞台での男役の見栄えがよくなることから、断髪には容認であったファンの姿勢が伺えます。
当時は断髪反対な劇団・知識人層と、断髪容認なファンとの間で、「断髪論争」なるものが巻き起こっていたようで…
興味のある方は、当時の「高声低声」を調べてみると面白いですよ~🎵
次回は、戦前の男役シリーズの最終回!
一三先生が葦原邦子さんに宛てた、オフにおける振る舞いに関する手紙の内容とは…⁉✉
⑤はこちらからどうぞ👇
今日もまた、4000字弱のたっぷりボリュームになってしまいました😅
(論文を書き直している時点でしゃーない)
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*1:徳澤奈津子「「男役」の登場」『文藝別冊タカラヅカ それは愛、それは夢』河出書房新社、1998年、pp.170-171
*2: 水の江瀧子『水の江瀧子:ひまわり婆っちゃま』日本図書センター、2004年、pp.40-41
*3:白井鐵造『宝塚と私』中林出版、1967年、p.126
*4:高木史朗「宝塚美男美女伝② 燕尾服を着た妖精たち」朝日新聞社編『おお宝塚60周年:「ドンブラコ」から「ベルばら」まで』朝日新聞社、1976年、p.80
*5:三橋順子『女装と日本人』講談社、2008年、pp.150-152
*6:白井、前掲書、p.123
*7:白井、前掲書、p.126
*8:「断髪漫談」『歌劇』1933年9月号、歌劇発行所、pp.54-55(旧字体は新字体に改めた)
「生徒」と袴―小林一三のイメージ戦略【オフにおける男役イメージの変遷③】
こんばんは🌟
ファッションに注目し、オフにおける男役イメージ変遷の謎に迫るシリーズ、第3弾です👘
②はこちらからどうぞ👇
今回から、戦前~2000年代の男役ファッションを順に追っていくのですが…
③~⑤はオフのファッション前史として、戦前におけるタカラジェンヌや男役に関連する、様々なイメージについて書いていきます✍
戦前というとかなり昔のように思えるのですが、当時定められた様々なことが、今の宝塚にも息づいていたりします。
例えば、宝塚では劇団員のことを「生徒」と呼びますよね。
また彼女たちが式典などで着用する正装は、緑の袴とされています。
実は、このような「生徒」呼びや袴の着用は、戦前に定められたものなのです!
では、どうしてこのように決められたのかは、皆さんご存じですか?
そこには創立者である小林一三先生の、大きなイメージ戦略がありました…😲
今を知るには昔を知れ・・・
というわけで、100年ほど前の宝塚へとタイムスリップしましょう🕰
宝塚歌劇の設立とその理念
宝塚歌劇の前身となる宝塚唱歌隊が組織されたのは、1913年7月のことでした。
同年12月に宝塚少女歌劇養成会へ改称したのち、翌年4月には記念すべき第一回公演が行われます。
上演された作品は、皆さんご存じ『ドンブラコ』ですね🍑
その後1919年には宝塚音楽歌劇学校が設立され、その生徒と卒業生で、宝塚少女歌劇団*1を組織するという形を取るようになりました。
宝塚歌劇設立の理念としては、「組織モデルは学校とし、そこは良妻賢母を育てる花嫁学校とする」というものが挙げられます🏫
また舞台に立つ劇団員は、女優ではなく「生徒」と定義されました。
創立者の小林一三先生はこれらの点をアピールし、タカラジェンヌ=「良家の子女」イメージの形成につとめます*2。
「舞台に立つ女性」のマイナスイメージ
なぜ一三先生は、このようなイメージ戦略を行ったのでしょうか?
それはズバリ、当時における「舞台に立つ女性」の捉えられ方が理由です。
宝塚が設立された当時、舞台に立つ女性というのは主に、
文明開化後に登場した女優と、旧来の芸能の女である芸者などの、二つが挙げられます。
まず女優は当時、身持ちの悪い「ふしだらな女」と世間の非難を浴びていました*3。
20世紀前半に活躍した女優の森律子は、女優になったがために女学校の名簿から除名されてしまったというエピソードもあります。
また芸者などの旧来の芸能の女たちは、芸を売り身も売るというイメージの存在だった*4そうです。
宝塚の劇団員=「生徒」!
このような、舞台に立つ女性に持たれるマイナスイメージを避けつつ、宝塚歌劇の公演を行うにはどうしたらよいのでしょうか?
そこで一三先生が取ったのが、宝塚の劇団員を「生徒」と定義する戦略でした。
宝塚が演技者を女優ではなく「生徒」と呼び、組織モデルを「学校」とし、そのモットーを「清く 正しく 美しく」と繰り返したのは、前時代の女芸がひきずる性的なイメージを払拭するためでした*5。
つまり当時における「舞台に立つ女性」のイメージと切り離すため、「生徒」「良家の子女」イメージを全面に打ち出したということです。
「生徒」イメージを作る袴
さらに、「生徒」たちの私生活にも指導がなされます。
ファッションに関したところで言うと、私服も華美に流れないため、袴姿の学生服を制服として、質実な教育が行われました*6。
袴の着用を定めることによって、ファッションという視覚面からも「生徒」をアピールすることができますよね💚
以上のように、宝塚歌劇の出発点としては、いかに女優・芸者イメージを寄せ付けないかという場所から始まったのでした。
戦前においてはその後も、様々なマイナスイメージからの差異化・脱却を図る闘いが続いていきます…🥊
※今回の内容をもっと詳しく知りたい!という方は、
川崎賢子さんの『宝塚 消費社会のスペクタクル』
及び、『宝塚というユートピア』
をご参照ください。
また22年2月には、新刊『宝塚 変容を続ける「日本モダニズム」』が発売されています~📚(忙しくて筆者は未読です💦早く読みたい…)
次回はついに、レヴューの導入により「男役」の存在が確立🎩
しかし、当初は男役の髪は長いままでした😮
その理由を調べると、髪を短く切ること自体がNGだったり、 そもそも男装は「変態」だとみなされていたり…
それでも舞台上でかっこよくなるため、髪を切った乙女たち…✂
およそ90年前に起こった、断髪ムーヴメントについて書いていきます❗
④はこちらから👇
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