「生徒」と袴―小林一三のイメージ戦略【オフにおける男役イメージの変遷③】
こんばんは🌟
ファッションに注目し、オフにおける男役イメージ変遷の謎に迫るシリーズ、第3弾です👘
②はこちらからどうぞ👇
今回から、戦前~2000年代の男役ファッションを順に追っていくのですが…
③~⑤はオフのファッション前史として、戦前におけるタカラジェンヌや男役に関連する、様々なイメージについて書いていきます✍
戦前というとかなり昔のように思えるのですが、当時定められた様々なことが、今の宝塚にも息づいていたりします。
例えば、宝塚では劇団員のことを「生徒」と呼びますよね。
また彼女たちが式典などで着用する正装は、緑の袴とされています。
実は、このような「生徒」呼びや袴の着用は、戦前に定められたものなのです!
では、どうしてこのように決められたのかは、皆さんご存じですか?
そこには創立者である小林一三先生の、大きなイメージ戦略がありました…😲
今を知るには昔を知れ・・・
というわけで、100年ほど前の宝塚へとタイムスリップしましょう🕰
宝塚歌劇の設立とその理念
宝塚歌劇の前身となる宝塚唱歌隊が組織されたのは、1913年7月のことでした。
同年12月に宝塚少女歌劇養成会へ改称したのち、翌年4月には記念すべき第一回公演が行われます。
上演された作品は、皆さんご存じ『ドンブラコ』ですね🍑
その後1919年には宝塚音楽歌劇学校が設立され、その生徒と卒業生で、宝塚少女歌劇団*1を組織するという形を取るようになりました。
宝塚歌劇設立の理念としては、「組織モデルは学校とし、そこは良妻賢母を育てる花嫁学校とする」というものが挙げられます🏫
また舞台に立つ劇団員は、女優ではなく「生徒」と定義されました。
創立者の小林一三先生はこれらの点をアピールし、タカラジェンヌ=「良家の子女」イメージの形成につとめます*2。
「舞台に立つ女性」のマイナスイメージ
なぜ一三先生は、このようなイメージ戦略を行ったのでしょうか?
それはズバリ、当時における「舞台に立つ女性」の捉えられ方が理由です。
宝塚が設立された当時、舞台に立つ女性というのは主に、
文明開化後に登場した女優と、旧来の芸能の女である芸者などの、二つが挙げられます。
まず女優は当時、身持ちの悪い「ふしだらな女」と世間の非難を浴びていました*3。
20世紀前半に活躍した女優の森律子は、女優になったがために女学校の名簿から除名されてしまったというエピソードもあります。
また芸者などの旧来の芸能の女たちは、芸を売り身も売るというイメージの存在だった*4そうです。
宝塚の劇団員=「生徒」!
このような、舞台に立つ女性に持たれるマイナスイメージを避けつつ、宝塚歌劇の公演を行うにはどうしたらよいのでしょうか?
そこで一三先生が取ったのが、宝塚の劇団員を「生徒」と定義する戦略でした。
宝塚が演技者を女優ではなく「生徒」と呼び、組織モデルを「学校」とし、そのモットーを「清く 正しく 美しく」と繰り返したのは、前時代の女芸がひきずる性的なイメージを払拭するためでした*5。
つまり当時における「舞台に立つ女性」のイメージと切り離すため、「生徒」「良家の子女」イメージを全面に打ち出したということです。
「生徒」イメージを作る袴
さらに、「生徒」たちの私生活にも指導がなされます。
ファッションに関したところで言うと、私服も華美に流れないため、袴姿の学生服を制服として、質実な教育が行われました*6。
袴の着用を定めることによって、ファッションという視覚面からも「生徒」をアピールすることができますよね💚
以上のように、宝塚歌劇の出発点としては、いかに女優・芸者イメージを寄せ付けないかという場所から始まったのでした。
戦前においてはその後も、様々なマイナスイメージからの差異化・脱却を図る闘いが続いていきます…🥊
※今回の内容をもっと詳しく知りたい!という方は、
川崎賢子さんの『宝塚 消費社会のスペクタクル』
及び、『宝塚というユートピア』
をご参照ください。
また22年2月には、新刊『宝塚 変容を続ける「日本モダニズム」』が発売されています~📚(忙しくて筆者は未読です💦早く読みたい…)
次回はついに、レヴューの導入により「男役」の存在が確立🎩
しかし、当初は男役の髪は長いままでした😮
その理由を調べると、髪を短く切ること自体がNGだったり、 そもそも男装は「変態」だとみなされていたり…
それでも舞台上でかっこよくなるため、髪を切った乙女たち…✂
およそ90年前に起こった、断髪ムーヴメントについて書いていきます❗
④はこちらから👇
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