「男役」の確立と、髪を切った乙女たち【オフにおける男役イメージの変遷④】
こんばんは✨
最近、ブログを書きたい欲が爆発しているなつみちです🔥
「オフにおける男役イメージの変遷」シリーズ、今日もバリバリ書いていきますよ~💪
前回の③では、舞台に立つ女性のマイナスイメージを避けるため、劇団員を「生徒」と定義するという小林一三先生のイメージ戦略を確認しました。
「生徒」と呼ぶことでこの問題は一件落着…と思いきや、
宝塚はその後も、様々なマイナスイメージとの闘いを続けることとなります…⚡
レヴューの導入と、「男役」の確立
本シリーズで中心的に扱う、「男役」という存在🎩
宝塚の歴史において男役が登場し確立するのは、レヴューというジャンルを輸入し上演したことがきっかけであるとされています。
初の上演作品である『ドンブラコ』にも男性の桃太郎役が登場するなど、レヴュー導入以前も女性が男性役を演じてはいたのですが、それは今に連なる「男役」とはまた異なるものでした。
1927年に日本初のレヴュー『モン・パリ』が上演され、宝塚はレヴュー時代に突入。
『モン・パリ』では初めてスーツを着た紳士の役としての「男役」が初めて登場し、またレヴューの中に徐々にロマンスの要素が入り込むようになり、娘役との恋愛を演じる「男役」が確立されていったそうです*1😍
初期の男役の髪は長かった!
こうして誕生し確立した男役でしたが、当時における男役のヴィジュアルは、一体どのようなものであったのでしょうか?
そのトピックスとして一つ、男役の髪型が挙げられます。
現在の男役は、地毛もショートカットにするのが恒例ですよね。
しかし当時の男役は、髪が長いまま男役を演じていたそうです😳
では一体どのように男役を演じていたのかというと、髪を丸めてネットをかぶって、その上に帽子をかぶるというものであり、それはネットで頭がふくらんだ頭でっかちのイメージだったみたいです*2。
下記資料における右ページの写真は、1930年に上演されたレヴュー『パリゼット』の男役なのですが、
確かに長い髪を隠した帽子が大きくて、スタイリッシュとは言い難い感じですよね…🙄
良家の子女は断髪NG
見栄えが悪いにもかかわらず、なぜ男役たちはそのような方法を取ったのでしょうか?
理由としては、以下の二点が挙げられます。
一点目は、当時における髪を切ってしまうこと、つまり断髪に対するイメージが、宝塚が目指す「良家の子女」イメージと相容れなかったからです。
当時断髪をしているような女性は、世間から一種特別な眼で見られていたそう*3。
今でこそ女性のショートカットはごく一般的ですが、およそ90年前は女性が髪を切ることに対する風当たりが、まだまだ厳しかったんですね…
ましてや、タカラジェンヌは舞台人。
前回確認したように、せっかく「生徒」「良家の子女」イメージ作戦で頑張っていたのに、断髪してそのイメージが壊れてしまったら…というところですよね😨
男装=「変態」⁉
また二点目として、完全な男装による「変態」イメージを避けるためという点が考えられます。
演出家の高木史朗先生は、当時の男役の在り方に関して以下のように語っておられます。
男役という考え方も、無理に男らしく見せるとか、変態的な疑似男性的なあり方は否定された。あくまで少女が男の役をやっているということで許される範囲の自然さをとった*4。
つまり長い髪を切ってしまい、完全な男装により近づくというよりは、帽子の下には長い髪が隠されていることが明らかであり、「これはあくまでも少女が演じている男性ですよ☺」ということがヴィジュアル的に分かるという面を、敢えて残していたということでしょう。
ところで、高木先生のお話に登場した「変態」という言葉は、当時異性装がどのように受け止められていたかを示しています。
明治末~大正期には、異性装を禁忌とする西欧の精神医学が導入され、異性装者が「変態性慾」の持ち主と見られるようになります*5。
つまり、異なる性を装う男装や女装といった異性装は、「変態」としてみなされていたのです😲
そう、男装にもまたマイナスイメージが存在していました💦
長い髪のまま男役を演じるというのは、この「変態」イメージを少しでも緩和する策でもあったということでしょう。
髪を切った乙女たち
しかし舞台上での見栄えを向上させるために、男役たちは断髪を行います…✂
男役として初めて断髪したのはタカラジェンヌではなく、松竹歌劇団の水の江瀧子さんで、それは1931年のことでした。
(先日OGの凰稀かなめさんが、彼女を演じておられましたね~❣)
続く1932年、『ブーケ・ダムール』を上演する際、門田芦子さんがついに断髪を敢行‼
(下記資料左ページに、断髪した門田さんのお写真が載っています)
門田さんは、劇団の理事長にひどく叱られたそうです…*6🥲
断髪しちゃったけど…
そして、断髪の波は男役の間で更に広まって行きます。
と言っても、断髪へのハードルは依然高かったようで、切るときに家族会議をした上で切ったなどという状態であったそうです*7。
また、自身の判断で断髪を行ってからも男役たちは、家族など周囲の人々にどう思われるのか、叱られはしないかと心配をしていたみたいです😟
例えば、『歌劇』1933年9月号には「断髪漫談」という記事が掲載されましたが、そこではそのような男役のエピソードが確認できます。
およそ90年前の『歌劇』をめくってみると…📖
・お母さんが大阪駅で会つた瞬間の大喝一声にとてもなやんでゐました。(中略)よしどんな事が有つても帽子は取つてやらないぞと悲壮な決心をしました。(大路多雅子)
・お家からは家内中そろってお父様のお墓参りをしなければならないので一度帰つて来る様にと何度も/\手紙を寄こすのですが頭が気になつてどうしても帰る気になれませんでした。(秋風多江子)
以上のように、
「短い髪を見られて、母親に叱られるのではないか…😰」
「断髪しちゃったから帰省しづらい…😫」
といった、男役の心の内が明らかとなっていますね。
一三先生のご意見は?
一方、自身が掲げる「良家の子女」イメージに反する断髪が男役の間で広まったことに関して、一三先生はどのように考えておられたのでしょうか?
もしや、大変にお怒りだったとか…?🥺
1934年の『歌劇』10月号にはズバリ、「「生活の質素」と「断髪」の話」と題された先生による記事が掲載されており、以下はその中で断髪に関する箇所を抜粋したものです。
レヴユウの盛大となると同一歩調に、断髪礼讃の声が学校中を風靡して、どうすることも出来ないようになつて仕舞った。舞台上の必要上から、スマートの男役や、ダンス専科の役どころから見て断髪は勿論必要である。然し、一面日本人としてほこるべき黒髪を持つ女として考えると、猫も杓子も断髪するのはどうかと思ふ*9
このように、舞台上での必要性から断髪を半ば容認する姿勢ではあるものの、やはり日本女性として誇るべき黒髪を切ってしまうという点に関しては、断髪に反対しているということが確認できますね。
(めちゃくちゃお怒りとかではなくてよかった…(´▽`) ホッ)
ファンの反応は?
最後に、ファンは男役の断髪をどのように捉えていたかについて見てみましょう。
当時の「高声低声」にはちょっと長いですが、以下のような投書が寄せられていました🌼
(なんと、「高声低声」コーナーはこんなにも昔から存在していたのです…!)
小夜、葦原さんが断髪された二人とも今宝塚の男役を背負って立つ人だけに双手を上げて賛成したい。之れでどれ程舞台の上の男役によりスマートさが見られるかと思ふと楽しみです。断髪しても生徒さん自身が日常宝塚の生徒としての誇りと品位さへ持つならば舞台の上に清さと溌剌さを加へる丈でも嬉れしい事ではありませんか。(澁谷美登里)*10
以上より、舞台での男役の見栄えがよくなることから、断髪には容認であったファンの姿勢が伺えます。
当時は断髪反対な劇団・知識人層と、断髪容認なファンとの間で、「断髪論争」なるものが巻き起こっていたようで…
興味のある方は、当時の「高声低声」を調べてみると面白いですよ~🎵
次回は、戦前の男役シリーズの最終回!
一三先生が葦原邦子さんに宛てた、オフにおける振る舞いに関する手紙の内容とは…⁉✉
⑤はこちらからどうぞ👇
今日もまた、4000字弱のたっぷりボリュームになってしまいました😅
(論文を書き直している時点でしゃーない)
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*1:徳澤奈津子「「男役」の登場」『文藝別冊タカラヅカ それは愛、それは夢』河出書房新社、1998年、pp.170-171
*2: 水の江瀧子『水の江瀧子:ひまわり婆っちゃま』日本図書センター、2004年、pp.40-41
*3:白井鐵造『宝塚と私』中林出版、1967年、p.126
*4:高木史朗「宝塚美男美女伝② 燕尾服を着た妖精たち」朝日新聞社編『おお宝塚60周年:「ドンブラコ」から「ベルばら」まで』朝日新聞社、1976年、p.80
*5:三橋順子『女装と日本人』講談社、2008年、pp.150-152
*6:白井、前掲書、p.123
*7:白井、前掲書、p.126
*8:「断髪漫談」『歌劇』1933年9月号、歌劇発行所、pp.54-55(旧字体は新字体に改めた)